コペンハーゲンでお世話になったのは、ヘンリクという画家の家だった。
部屋は彼の作品がそこかしこに飾られていて、私はいっぺんにこの宿を気に入った。
ヘンリクはヨーク(卵の黄身)を使って描いた絵と、油絵の違いを紹介してくれた。
そして私たちにも、滞在中自由に絵を描いていいよ、と言った。
描くわけない、と内心思いながらも、うれしかった。
一泊目の夜。私たちはコペンハーゲンの港が壁一面の窓から見渡せるキッチンにいた。
「リアルフードを食べなくちゃいけないよ。
もう、ピザとコーラはこりごりだよ」
ヘンリクは、そう言いながらスモークサーモンを冷蔵庫から取り出し、
加熱せずにザクザクと切り、ゆでたキヌアに混ぜて夕食を作っているようだった。
私もちょうど、娘と自分のために、駅前のスーパーIKAで買った平打ち卵入りパスタを茹で、
IKAブランドの瓶詰めトマトペーストを混ぜただけの簡単な夕食を作っていた。
IKAは地下鉄の駅にも入っている安めの大衆向けスーパー。
茹でたエンドウ豆と目玉焼きを添えたら、なかなか美味しそうにできた。
ヘンリクは、シャケごはんの入ったお椀を持ってきて目の前に座り、ぽつりぽつりと話し始めた。
「最近のスウェーデンでは、若い親が、子供の目の前でまだ食べられる物を捨てるんだ」
「捨てて、また同じ物を他からよそって、食べなさいと言うんだ」
「そんな世の中、おかしいよね。おかしいと思わないかい」
この辺から、話がいろんな方向へ。
「君は牛乳を飲むか?」
「はい、飲みます。子供も大好きで…」
「おかしいと思わないか、牛乳は本来、牛の子供を育てるためにあるのに…地球全体のバランスが狂う…」
彼の言うことはもっともだけど、話がどんどん、牛乳が大好きな私には同意しづらい方向になってきた。
やばい。何かフォローしなければ。
「できるだけ、牛に負担のない方法で牛乳が採れたらいいんですけどね。
そして、私たちも飲み過ぎないように…感謝の気持ちを持って…」
精一杯フォローしてみた結果が、この程度だった。
どうしようかなと思っていると、彼の方から話を変えてくれた。
「日本人はとても礼儀正しいという印象があるけれど、なぜなんだ?」
とりあえず牛乳が好きなことを責められなくてよかった…と思いながら、
なぜなんだろう。悩んだ。どう答えようか。
現地の人と交流したい、それが私の旅のテーマでもあったから、
ここであいまいに濁さず、ちゃんと会話したい。
内容のある話をしたい。
一瞬考えたあげく、私は「ありがとう」について話した。
「日本人がなぜ礼儀正しいと思われるかはよくわからないけれど、
日本には万物に感謝するという考え方があって、
例えば『ありがとう』という言葉は直訳するとサンキューだけど、
英語では「感謝します(thank)、あなたに(you)」という構造になっている。
でも日本語の『ありがとう』は、あなたに向かって言っていても、
実はそれだけじゃなく、今目の前で起こっている出来事と、
それにつながっている全ての事象に対して感謝するという意味が込められているんです。
例えば、今日の出会いに、この食事の材料を作ってくれた人に、といった風に。
だから、何事に対しても感謝の気持ちを持つことが大切だと子供の頃から
言葉を通じて学んでいるのかもしれない」
ヘンリクは、このくだりを聞いていたく感心してくれた。
よかった、なんとか意味のあるようなないような会話ができた…。
日本語の「ありがとう」の解釈が正しいかどうかは謎。完全なる思いつき。でっち上げ。
思えば、日本から遠く離れたコペンハーゲンで、昨日知り合ったばかりの宿主と、
こうして一緒に食事をしているご縁は、本当に「ありがたい」。
実はこの宿が決まるまで、おそらく子連れだからか?何件かの大家さんに断られ、
最後にいい返事をくれたのがこの人だった。
私たちは食事を終えて、手を合わせて「ごちそうさま」と言い、
そしてお互いに向かって「ありがとう」と言った。
ヘンリクは、3回も「ありがとう」と言ってくれた。よっぽど気に入ったのかもしれない。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
壁にはヘンリクの作品が並んでいて、絵はかなり暗いものもあるんだけれど、
手作りのパスタをぱくぱく食べながら、私と娘はとてもリラックスしていた。
ヘンリクの絵は、油絵のにおいがしなくて、完成品はきらっと透明感がある。
このきらっ…は黄身の照りなのか?乾いてもいつまでもきらっとしているのが不思議。
細いひび割れも味がある。
ヘンリクは娘に手品も教えてくれた。
出かけるとき、子供のものだというキックスクーターを快く貸してくれて、
時々歩くのを嫌がる娘を随分救ってくれた。
おすすめだと言ってくれたコペンハーゲンの科学館に行けなかった事が、残念。
次こそ、行こうと思う。
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