在丹麥的機場,我發現我有一個很奇怪的感覺。
因為在丹麥的國際機場,幾乎沒有廣播。
由比較正確的講法來表現的話,我們只聽到人家講話的一點點聲音,拖行李的聲音而已,
我嚇到,世界上怎麼會有這麼安靜的機場!
當然,不只廣播,
從機場到哥本哈根的火車的售票處也不明顯卻沒有很明顯的招牌,
好像非常鼓勵遊客自己去找需要的咨詢(是我的感受)。
我們也不例外,只能靠自己,跟路人問月台在哪,然後找了一陣子機場的地圖。
其實完全不親切的環境啊,但這樣自己找的過程是蠻好玩的。
我女兒也應該感覺到媽媽的生存能力吧?
話說回來,後來我有了一個概念就是,這個地方有「聲音的自由」。
人的生活中,我們不知不覺中每天都在享受很多種權利。
但到這個時候,我從來沒有想過「聲音的自由」。
在這裡,我們能從遠遠的地方聽得到爺爺的咳嗽音,
而且我們的秘密話也有可能路過的人很有可能有聽到,
(但是我想應該沒有很多人聽得懂我們的日文)
人體真的很不可思議,聲音變少了,視覺就突然亮起來。
我們下了飛機第一個看到的東西大概是機場裡的很多北歐人藝術家的作品,
沒有聲音的環境下,好像眼睛看見到的顏色會更鮮明,
覺得非常漂亮,讓我不禁覺得我真的來到不同的地方。
原來,我們有權利不聽不想聽的聲音。
然後,有聲音不見得好。
我想起,我在臺北學法文的時候認識的法國人說,
「臺北的垃圾車每天都跟著『獻給雅麗絲』一起跑,
聽起來很不舒服,那是音樂的暴力,很擔心工作人員。會不會crazy啊?」
有聲音,不一定能讓別人開心。
有聲音,不一定很親切。
我開始認真想,在臺北或日本的城市公共場所裡,哪有「聲音的自由」呢?
我是在日本過度親切的環境下長大的人,
但這次,我也覺得有個「聲音的自由」很舒服。
不過,離開丹麥的時候要非常小心,
因為沒有廣播,一定要自己好好看時間,不然飛機不等你就飛走。
我還認識一個中年夫妻忘了時間在機場慢慢逛,真的錯過班機了。
デンマークのカストラップ空港には、音がない。
正確には、人々の話す声や荷物を押すゴロゴロという音は聞こえるけれど、
アナウンスの類いがほとんどない。
空港に降り立った瞬間、一番に感じたことはそれだった。
なんて静かな空港!
空港からコペンハーゲンへ向かう電車のホームも、
わかりやすい場所にあるとは言いがたく(あくまで私の感想だけれど)、
音声案内がなく、鮮やかなサインボードもない。
切符売り場の窓口もシンプルなデザインで、どこにもうるさい色彩がない。
だから切符を買って乗るまでに時間がかかってしまった。
でも、人に聞いたり、地図を探したりして、
必要な情報を自分で探す感じはとても面白かった。
ここは、「音の自由がある国」なんだと思った。
生きていく上で、私たちはいろんな権利を行使している。
仕事、住む場所、食べ物、その他何でも。
そんな中で、あまり気づくことがなかった「音の自由」。
カストラップ空港は、人の流れが途絶えると、シーンと静まり返る。
アナウンスと、それに伴う効果音がないからだ。
だから、遠くでおじさんが咳をしても聞こえてきたし、
私と娘のひそひそ話も、下手したらちょっと離れた所にいる誰かに聞こえていたかも。
(日本語がわかる人に聞こえていた確率はゼロに近いと思うが…)
不思議なもので、音がなくなると、視覚が鋭くなる。
空港に飾られた絵画作品の色彩の鮮やかさが、ものすごい勢いで目に飛び込んで来る。
ああ、外国に来たんだ…ヨーロッパにいるんだ…という実感が、
耳と、そして目から、じわじわと感じられた。
必要のない音を聞かない自由ってあるんだな。
音は、あればいいというものではないな。
ふと、フランス語教室で知り合ったフランス人講師の話を思い出した。
彼は半ば憤りながら言っていたっけ。
「台北のゴミ収集車の電子音楽は、『エリーゼのために』と決まっているけど、
あれば僕にすれば音の暴力だ。毎日聞かされたらたまらない。
あの仕事に従事する人が精神的におかしくならないか、心配だ」と。
音があれば、場が和むとは限らない。
音があれば、親切とも限らない。
考えてみれば、台湾にも日本にも、
好きな音楽を聞く自由はあっても、聞きたくない音を聞かない自由は少ないんじゃないか。
日本で過剰すぎるほどの丁寧なサービスを受けて育った私だけれど、
こんなシンプルな音の環境もいいもんだ、と心地よく感じた。
ただ、出国の際には要注意!
アナウンスが全くないので、免税店で買い物に夢中になるあまり、
飛行機に乗り損ねたという知り合いの話を聞いたから…。
剛到機場還緊張的臉。這裡有日文的標識。
空港に降り立った瞬間。どことなく緊張の面持ち。
日本語で「コペンハーゲン出口」とあった。ここまでは結構親切だったんだけど。