目前分類:北欧の旅 (4)

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日本語で「裸の付き合い」といえば、

「気の置けない相手と包み隠すことなく交流する」といった意味合いだけれど、

私は、フィンランドからスウェーデンへ戻る途中、

ある一人の男性と出会った。サウナの中で(笑)。

お互い水着を着ていたから(当たり前)厳密には「裸の付き合い」ではなかったし、

今思い返せば、出会ったというより私の方から挨拶をしたわけで、

ミストサウナの中でたまたま居合わせた紳士に声をかけるなんて、

アジア人女性としてどうなんだろうか。今さら反省。

ともかく、ヘルシンキに1日半しか滞在できなかったことが心残りだった私は、

優しそうに見えたその男性に、思い切って声をかけた。

娘は娘でその場で知り合ったウクライナ人の女の子とジャグジーで遊んでいた。

(その後、二人でいつの間にか夜10時からのショーを見に行く約束をしていた。

英語できないと思っていたけれど、いざというときにはできるのか…??)

+++

「すみません。あなたはフィンランド人ですか?このサウナは、フィンランド式のサウナですか?」

私は短い滞在期間の中で伝統的なフィンランド式のサウナに入れなかったのが心残りだったから、

今、船の上で入っているこのサウナが、フィンランド式かどうか知りたかった。

男性は言った。

「はい、私はフィニッシュ(フィンランド人)です。でもサウナはフィニッシュじゃない。

これは現代風の、普通のミストサウナですね」

私はここぞとばかりに、サウナについて質問した。

男性は静かな口調で、でも聞き取りやすい英語で答えてくれた。

フィンランドのサウナでは、バーチの木の枝を使うこと。

蒸気で身体が温まった後にそれを身体に叩き付けると、とてもいいにおいがして、

枝についた葉が優しく肌の角質を刺激し、不要な老廃物を取り去ってくれるので、

心地よいだけでなく衛生的にも優れた伝統文化なのだと。

バーチの枝は夏にしか採ることができないが、フィンランドの家庭では夏に採れた枝を乾燥させ、

一年中使えるように備蓄しておくのだ、ということも。

現地の人の口から伝統文化について教わったことが、とてもうれしかった。

フィニッシュは続けて私に質問した。

「日本では、会話の途中で相手の名前を呼びますか?」と。

私がどう答えようかと考えていると、続けてこう言った。

「フィンランドでは、公共の場所で相手の名前は呼びません。

名前は、その人にとってとても個人的なものだから。

とても親しくなって、二人だけで話すときに呼びます」

私の知る限り、日本や台湾では親しければ人前であろうとなかろうと、

名前を呼ぶのは当たり前の行為だけれど、フィンランドでは違うのか。

そこから、彼が仕事でアメリカに住んでいて、フィンランドに帰国したがっていることや、

人を見るなり大きな声で名前を呼び合い、

身振り手振りを交えて挨拶をするアメリカの文化に疲れていることなどを教えてくれた。

確かに、フィンランドの街は人がいてもどことなく静かだった。そういう理由もあったのだろうか。

「早くフィンランドに帰りたい。アメリカに戻りたくないよ…」

彼が至上の楽園だと言い、帰りたがっているフィンランド。

悲しいかな、私たちの乗る船は、そこから今どんどん離れていっている。

帰りの船で出会ったことがつくづく惜しまれた。

もっともっと、フィンランドの人々のことを教えてもらいたかった。

それから実際の街を見てみたらどんなに違った景色が見られたことか。

夏のフィンランド。次にまた、いつ訪れることができるだろう。

船は刻一刻とストックホルムへ近づいている。

サウナ室には、彼の声と、船の低いエンジン音が静かに響いていた。

それもつかの間、サウナの営業が終わるというアナウンスに追われて、

私たちはサウナを出た。

ジャグジーでは、相変わらず娘と女の子がはしゃいでいた。

名残惜しかったけれど、お別れの時間だった。

親しくなければ公共の場所で名前を呼ばないと言われたばかりだけど、

勇気を出して聞いてみた。

「お名前は?」「私はベン、あなたは?」

「○○○です。さようなら、ベン、お会いできてうれしかったです…」

するとベンは、嫌な顔をするどころか、最上級の笑顔を見せてくれた。

そして、

「さようなら、○○○。よい旅を!」と言って、去っていった。

ベンは、この人生で二度と会わないかもしれない初対面の私をどう思ったんだろうか。

さようなら、優しきフィンランド人、ベン。

いつかアメリカから帰ってきてフィンランドに住めますように…。

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子連れの旅ってどんな感じだろう?

私にとって今回の旅は、10年ぶりのヨーロッパ。

娘にとってはもちろん、見るもの触るもの全てが新鮮に写るだろう。

娘はきっと言ってくれるに違いない、「お母さん、連れてきてくれてありがとう…」と。

でも現実はそんな簡単なものではなかった。

限られた時間の中で効率よく動きたい大人と、

「今この瞬間」を最大限に楽しみたい子供との、戦い。バトルですよ、バトル。

憧れのスウェーデン、ストックホルムの街へ着いた時、私の心は浮き立っていた。

「ああ、本で見たNK(エヌコー、百貨店の名称)が見える!あれはオーレンスシティ(これも百貨店)!

ここでしか手に入らない、ずっと残したくなるような、自分のための記念品を見つけるんだ…」

でも結局、これらの百貨店には一歩たりとも足を踏み入れることができなかった。

なぜなら、娘が「公園に行きたい」と言ったから。

ちょうどお腹も空いていたので、お惣菜やさんで味が想像できないランチボックスをえいやっと買い、

ストックホルム中央駅のすぐ横の公園でピクニックをした。

あこがれのお店はすぐ隣にあるのに、私たちは芝生と太陽を選んだ。

公園では、カップルや家族連れが気ままに寝転がっていて、

その横で、延々と巨大なシャボン玉を作って見せてくれるおじさんがいて、

寝転がったり走ったりしながら、1時間、いや2時間は過ごしただろうか。

まるでストックホルム市内に住んでいて、いつでもここへ来られる親子のように。

買ったお弁当は、コリアンダーの香りが強く、スパイシーで、娘は一口しか食べられなかった。

お腹が空いていても、慣れない土地では想像以上に思ったように食べたり飲んだりできない。

でも子供はそんなことで落ち込まない。先のことを心配しない故の強さ。

リュックに入っているポテトチップスやビスケットをかじれば、また数時間平気で過ごせるのだ。

その後、風が少しひんやりしてきたので、公園を離れて少し歩いてみることにした。

まさか百貨店がその後まもなく閉まるとは考えもよらず…。

バス会社のフリーパスを買っていたので、同じ系列のフェリーに乗って、ストックホルムの街を水辺から眺めた。

そんな予定なんてまったくなかったけれど、歩いて行った先に船が見えたから。

結局、その船でまた1時間ほど過ごしたおかげで、

駅前に戻った時には百貨店はすべて閉まっていた。

娘はおもちゃ屋さんに行けなかったと言って、泣いた。私もショックだった。

だけど私は、内心感謝していた。

もし、娘が公園に行きたいと言ってくれていなかったら。

私はきっと百貨店で夢中になり、2、3時間は出てこなかっただろう。

昼下がりの一番気持ちいい時間帯に、店で何かを買って喜んでいただろう。

それを止めてくれたのは娘の、子供らしい気持ちだった。

今も鮮明に思い出すことができる、

少し湿っていた芝生の香りや、隣に座っていたカップルの話す声、

そして現地の子供に混ざってシャボン玉を追いかける娘の嬉しそうな顔。

そんな何でもないことを、飛行機で十数時間離れた異国で感じさせてくれたことに、

感謝し、感動していた。

自分がこんなことで感動する人間だとは思っていなかった。

物を買うのが大好きで、北欧では絶対ショッピングしようと心に決めていたのに。

有名な美術館も、ガイドブックに載っている景色も、ほとんど見ていないというのに。

だけど、私たちは確かにその日その時、ストックホルムにいた。

有名なお土産は買えなかったけれど、船上にはためくスウェーデンの国旗を見ながら、

ここの空と空気に、この国旗はなんて似合うんだろう…と、ぼんやり思うことができた。

子供と海外旅行するって、こういうことなのか。

帶小孩去海外自由行,會怎麼樣呢?

其實我一直在做夢。

這幾年來,跟台灣人的先生結了婚之後,

海外旅行只是指台灣跟日本之間的移動。

對我來說,隔了10年,生小孩後第一次去的歐洲。

對我女兒說,更是第一次接觸歐洲。

我之前一直在幻想,她應該會很感謝我,然後應該會說,

「媽媽,謝謝帶我來這麼棒的地方!」。

但是,現實沒那麼簡單。

大人通常去國外旅行的時候會很努力安排最有效率的行程,

意思是有限制的時間內可以去的地方越多越好。

或者,書上的有名景點,看得多就賺得多,

買禮物也是一定要的行程。

但是,小孩不一樣。

小孩活在當下是真的,尤其是我女兒。最主要的目的是享受那一刻,

並不是回國之後要給誰看的照片,要給誰的禮物。

我們到了瑞典首都Stockholm的那一天,

我很興奮。因為我本來很喜歡北歐的設計,他們的傢俱,文具,

不管什麼生活上的小東西我都覺得好美。

所以逛北歐的百貨是我從前想好的to do list之一。

「哇,那是雜誌上看過的NK百貨,旁邊就是人家說必去的AhlensCity,

我這次一定要找,可以收藏的,可以當紀念的好物!」

可是,我先講結果,我的計劃完全沒有成全。

因為我女兒說,「我想去公園!」。

剛好有點肚子餓的我們,去當地熟食小賣店買一盒便當,

走散步去Stockholm中央車站附近的公園吃野餐。

我一直想要的地方就在我們旁邊幾百公尺,

卻我們在公園坐著,曬太陽吃東西,就像住在這裡的親子一樣。

不幸的是,我們買的便當意外的香菜味太重又辣所以我女兒不能吃,

我覺得她很可憐,但原本喊餓的女兒完全不在乎,

說了「那沒關係」就打開自己的背包啃餅乾喝果汁,

繼續回去草地,追吹泡泡叔叔的泡泡。

大人通常會怕,如果等一下餓了怎麼辦?

但我女兒就,當下不餓了,就沒問題了。

大概過了一個多小時吧,風兒漸漸變涼了,我們決定離開公園走走。

那時的我們,沒有想很多百貨店幾點開幾點關。

走著走著,偶然看到本來沒有計劃的水上巴士就決定坐上,因為我們有巴士的48小時票。

從水岸看的Stockholm非常漂亮,而且風涼光暖,很舒服。

回來上岸之後我們終於發現,店家都關了,我們再也不能逛百貨了。

誰知道我們這輩子可以再來這裡逛街?

女兒突然開始哭了,掉著很多眼淚說,「我最愛的玩具店也關了!」。

但是,我其實心裡面很感謝她。

如果,她沒有說想要去公園的話呢。

我一定馬上衝去目的的百貨,然後在館內耗掉最舒服的下午時光。

她就是制止這樣的我,拉我,帶我去她的世界。

我還記得很明顯,那一天的草皮有點濕濕的,帶有青草味的感覺,

坐在隔壁的大學生一對情侶悄悄話的聲音,

還有,追著泡泡的女兒的表情多天真,多可愛。

她盡然讓我發現,在這麼遠的地方做「沒什麼」的事情,多幸福。

我很感動,我很感謝她。

謝謝妳不讓我去逛街。

沒想到這麼喜歡買小東西的我,來海外自由行可以這樣過。

當然,幾乎都沒有去很有名的美術館,也沒有看到經典的風景。

(也沒有跟什麼地標一起合照)

但是我們很確定,那一天,我們在Stockholm過了一個很開心的下午,沒有錯。

坐船的時候,我女兒在船內自己忙著換位子看風景,

我就一個人坐著不動,被風吹著,看著海景,發呆著。

然後在想,瑞典的藍黃雙色國旗,真的很適合這裡的天空。

我這輩子應該不會忘記這一天的藍色跟黃色。

我的帶小孩自由行,就是這樣。

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Stockholm中央車站附近的公園。

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看泡泡永遠都不膩。

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女兒吃一口就不吃的海鮮飯。不過我覺得還不錯吃。

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這個現打鮮果汁店老闆,使我女兒第一次路邊擠柳橙。(叫她幫忙!)味道很特別。

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以後每次看到瑞典國旗的時候,一定回想起這一天的天空。

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明明就在旁邊,卻跟我無緣的NK百貨。希望未來的有一天,能進去看看。

 

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コペンハーゲンでお世話になったのは、ヘンリクという画家の家だった。

部屋は彼の作品がそこかしこに飾られていて、私はいっぺんにこの宿を気に入った。

ヘンリクはヨーク(卵の黄身)を使って描いた絵と、油絵の違いを紹介してくれた。

そして私たちにも、滞在中自由に絵を描いていいよ、と言った。

描くわけない、と内心思いながらも、うれしかった。

一泊目の夜。私たちはコペンハーゲンの港が壁一面の窓から見渡せるキッチンにいた。

「リアルフードを食べなくちゃいけないよ。

もう、ピザとコーラはこりごりだよ」

ヘンリクは、そう言いながらスモークサーモンを冷蔵庫から取り出し、

加熱せずにザクザクと切り、ゆでたキヌアに混ぜて夕食を作っているようだった。

私もちょうど、娘と自分のために、駅前のスーパーIKAで買った平打ち卵入りパスタを茹で、

IKAブランドの瓶詰めトマトペーストを混ぜただけの簡単な夕食を作っていた。

IKAは地下鉄の駅にも入っている安めの大衆向けスーパー。

茹でたエンドウ豆と目玉焼きを添えたら、なかなか美味しそうにできた。

ヘンリクは、シャケごはんの入ったお椀を持ってきて目の前に座り、ぽつりぽつりと話し始めた。

「最近のスウェーデンでは、若い親が、子供の目の前でまだ食べられる物を捨てるんだ」

「捨てて、また同じ物を他からよそって、食べなさいと言うんだ」

「そんな世の中、おかしいよね。おかしいと思わないかい」

この辺から、話がいろんな方向へ。

「君は牛乳を飲むか?」

「はい、飲みます。子供も大好きで…」

「おかしいと思わないか、牛乳は本来、牛の子供を育てるためにあるのに…地球全体のバランスが狂う…」

彼の言うことはもっともだけど、話がどんどん、牛乳が大好きな私には同意しづらい方向になってきた。

やばい。何かフォローしなければ。

「できるだけ、牛に負担のない方法で牛乳が採れたらいいんですけどね。

そして、私たちも飲み過ぎないように…感謝の気持ちを持って…」

精一杯フォローしてみた結果が、この程度だった。

どうしようかなと思っていると、彼の方から話を変えてくれた。

「日本人はとても礼儀正しいという印象があるけれど、なぜなんだ?」

とりあえず牛乳が好きなことを責められなくてよかった…と思いながら、

なぜなんだろう。悩んだ。どう答えようか。

現地の人と交流したい、それが私の旅のテーマでもあったから、

ここであいまいに濁さず、ちゃんと会話したい。

内容のある話をしたい。

一瞬考えたあげく、私は「ありがとう」について話した。

「日本人がなぜ礼儀正しいと思われるかはよくわからないけれど、

日本には万物に感謝するという考え方があって、

例えば『ありがとう』という言葉は直訳するとサンキューだけど、

英語では「感謝します(thank)、あなたに(you)」という構造になっている。

でも日本語の『ありがとう』は、あなたに向かって言っていても、

実はそれだけじゃなく、今目の前で起こっている出来事と、

それにつながっている全ての事象に対して感謝するという意味が込められているんです。

例えば、今日の出会いに、この食事の材料を作ってくれた人に、といった風に。

だから、何事に対しても感謝の気持ちを持つことが大切だと子供の頃から

言葉を通じて学んでいるのかもしれない」

ヘンリクは、このくだりを聞いていたく感心してくれた。

よかった、なんとか意味のあるようなないような会話ができた…。

日本語の「ありがとう」の解釈が正しいかどうかは謎。完全なる思いつき。でっち上げ。

思えば、日本から遠く離れたコペンハーゲンで、昨日知り合ったばかりの宿主と、

こうして一緒に食事をしているご縁は、本当に「ありがたい」。

実はこの宿が決まるまで、おそらく子連れだからか?何件かの大家さんに断られ、

最後にいい返事をくれたのがこの人だった。

私たちは食事を終えて、手を合わせて「ごちそうさま」と言い、

そしてお互いに向かって「ありがとう」と言った。

ヘンリクは、3回も「ありがとう」と言ってくれた。よっぽど気に入ったのかもしれない。

ありがとう。ありがとう。ありがとう。

壁にはヘンリクの作品が並んでいて、絵はかなり暗いものもあるんだけれど、

手作りのパスタをぱくぱく食べながら、私と娘はとてもリラックスしていた。

ヘンリクの絵は、油絵のにおいがしなくて、完成品はきらっと透明感がある。

このきらっ…は黄身の照りなのか?乾いてもいつまでもきらっとしているのが不思議。

細いひび割れも味がある。

ヘンリクは娘に手品も教えてくれた。

出かけるとき、子供のものだというキックスクーターを快く貸してくれて、

時々歩くのを嫌がる娘を随分救ってくれた。

おすすめだと言ってくれたコペンハーゲンの科学館に行けなかった事が、残念。

次こそ、行こうと思う。

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在丹麥的機場,我發現我有一個很奇怪的感覺。

因為在丹麥的國際機場,幾乎沒有廣播。

由比較正確的講法來表現的話,我們只聽到人家講話的一點點聲音,拖行李的聲音而已,

我嚇到,世界上怎麼會有這麼安靜的機場!

當然,不只廣播,

從機場到哥本哈根的火車的售票處也不明顯卻沒有很明顯的招牌,

好像非常鼓勵遊客自己去找需要的咨詢(是我的感受)。

我們也不例外,只能靠自己,跟路人問月台在哪,然後找了一陣子機場的地圖。

其實完全不親切的環境啊,但這樣自己找的過程是蠻好玩的。

我女兒也應該感覺到媽媽的生存能力吧?

話說回來,後來我有了一個概念就是,這個地方有「聲音的自由」。

人的生活中,我們不知不覺中每天都在享受很多種權利。

但到這個時候,我從來沒有想過「聲音的自由」。

在這裡,我們能從遠遠的地方聽得到爺爺的咳嗽音,

而且我們的秘密話也有可能路過的人很有可能有聽到,

(但是我想應該沒有很多人聽得懂我們的日文)

人體真的很不可思議,聲音變少了,視覺就突然亮起來。

我們下了飛機第一個看到的東西大概是機場裡的很多北歐人藝術家的作品,

沒有聲音的環境下,好像眼睛看見到的顏色會更鮮明,

覺得非常漂亮,讓我不禁覺得我真的來到不同的地方。

原來,我們有權利不聽不想聽的聲音。

然後,有聲音不見得好。

我想起,我在臺北學法文的時候認識的法國人說,

「臺北的垃圾車每天都跟著『獻給雅麗絲』一起跑,

聽起來很不舒服,那是音樂的暴力,很擔心工作人員。會不會crazy啊?」

有聲音,不一定能讓別人開心。

有聲音,不一定很親切。

我開始認真想,在臺北或日本的城市公共場所裡,哪有「聲音的自由」呢?

我是在日本過度親切的環境下長大的人,

但這次,我也覺得有個「聲音的自由」很舒服。

不過,離開丹麥的時候要非常小心,

因為沒有廣播,一定要自己好好看時間,不然飛機不等你就飛走。

我還認識一個中年夫妻忘了時間在機場慢慢逛,真的錯過班機了。

デンマークのカストラップ空港には、音がない。

正確には、人々の話す声や荷物を押すゴロゴロという音は聞こえるけれど、

アナウンスの類いがほとんどない。

空港に降り立った瞬間、一番に感じたことはそれだった。

なんて静かな空港!

空港からコペンハーゲンへ向かう電車のホームも、

わかりやすい場所にあるとは言いがたく(あくまで私の感想だけれど)、

音声案内がなく、鮮やかなサインボードもない。

切符売り場の窓口もシンプルなデザインで、どこにもうるさい色彩がない。

だから切符を買って乗るまでに時間がかかってしまった。

でも、人に聞いたり、地図を探したりして、

必要な情報を自分で探す感じはとても面白かった。

ここは、「音の自由がある国」なんだと思った。

生きていく上で、私たちはいろんな権利を行使している。

仕事、住む場所、食べ物、その他何でも。

そんな中で、あまり気づくことがなかった「音の自由」。

カストラップ空港は、人の流れが途絶えると、シーンと静まり返る。

アナウンスと、それに伴う効果音がないからだ。

だから、遠くでおじさんが咳をしても聞こえてきたし、

私と娘のひそひそ話も、下手したらちょっと離れた所にいる誰かに聞こえていたかも。

(日本語がわかる人に聞こえていた確率はゼロに近いと思うが…)

不思議なもので、音がなくなると、視覚が鋭くなる。

空港に飾られた絵画作品の色彩の鮮やかさが、ものすごい勢いで目に飛び込んで来る。

ああ、外国に来たんだ…ヨーロッパにいるんだ…という実感が、

耳と、そして目から、じわじわと感じられた。

必要のない音を聞かない自由ってあるんだな。

音は、あればいいというものではないな。

ふと、フランス語教室で知り合ったフランス人講師の話を思い出した。

彼は半ば憤りながら言っていたっけ。

「台北のゴミ収集車の電子音楽は、『エリーゼのために』と決まっているけど、

あれば僕にすれば音の暴力だ。毎日聞かされたらたまらない。

あの仕事に従事する人が精神的におかしくならないか、心配だ」と。

音があれば、場が和むとは限らない。

音があれば、親切とも限らない。

考えてみれば、台湾にも日本にも、

好きな音楽を聞く自由はあっても、聞きたくない音を聞かない自由は少ないんじゃないか。

日本で過剰すぎるほどの丁寧なサービスを受けて育った私だけれど、

こんなシンプルな音の環境もいいもんだ、と心地よく感じた。

ただ、出国の際には要注意!

アナウンスが全くないので、免税店で買い物に夢中になるあまり、

飛行機に乗り損ねたという知り合いの話を聞いたから…。

 

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剛到機場還緊張的臉。這裡有日文的標識。

空港に降り立った瞬間。どことなく緊張の面持ち。

日本語で「コペンハーゲン出口」とあった。ここまでは結構親切だったんだけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

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